報酬はお礼である

 以前、「予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」という本を読んで、確信したことがあるのでメモしておきます。
 結論からいいますと、”報酬はお礼の印し”だということです。この概念は、モノを売って得る収入にも、労働して得る報酬にも当てはまって、おそらく、すべてのお金のやり取りに適用できるのではないかと考えています。
 我々は、毎日、コンビニやレストランでいろいろなものを買います。生物学の研究者のみなさんも、実験器具や測定機器などを購入されます。これは必要だから購入するわけですから、ないと困るものを購入されているわけです。なので、そのお礼の印しとしてお金を支払っていると考えてみてはどうかと思いました。
 では、お礼と考えた場合、価格はどうやって決めるのでしょう。旧来の経済学では、需要量と供給量の関係が価格を決めるといわれてきましたが、先の「予想どおり。。。」には、価格はかならずしも需要量と供給量の関係では決まらないと書いてありましたし、それを証明するいくつかの実験結果も紹介されていました。わたしも、商売をするものの実感として、需要と供給との関係で価格が決まるという考えに以前から違和感がありました。で、「予想どおり。。。」の本を読んで感じたのは、報酬はお礼の印しなのだから、支払うひとが決めればいいのではないか。時には、微々たる報酬しかもらえないこともあり、ある時は、思ってもいない高い報酬をいただくことがあってもいいのではないかと思うようになりました。もちろん、現実のビジネスの上では、そんなことは通用しないので、残念ながら、”弊社の商品は言い値で売ります”などとする勇気はまだありませんが、本質的にはそういうものなのだと思っていろいろなことを考えてみてはどうかと最近は思っています。
 この報酬はお礼という考えを少し広げて考えていってみましょう。もし、本当に販売価格がお礼の印しとして、買い手が決めるものとしましょう。売るひとが儲けるためにはどうすればいいかというと、多くのひとが必要だと思ってくれる製品を出す、つまり多くの人に役立つモノを作ることですね。そういうものを作ったとして、もし、みんながケチでちょっとしか支払わなかったらどうなるでしょう。商売がたちゆかなくなって、必要なものを供給してもらえなくなります。ですから、買うひとが、商品を売る人のことを少しだけ考えて値段を決めてくれることになります。また、その商品にたいへんな感謝をしているひとがいて、そのひとがとてつもない金額でそれを買ってくれて、後のひとが同じものを安く手にいれるなんていうことも考えられれます。でも、重要なことは、”人に役に立つモノを作る”ということです。
 しかし、これでは、収入が安定しませんね。確かに不安がつきまといます。一生収入の不安に悩みながら人生を送ることになりますが、人類も動物も、基本的にはある意味飢餓状態で生きていくというのがベースで、ときどきたらふく食べられるというのが本来のバランスの取れた生き方だったように思いますし、大量生産・大量消費の好景気の中で、一生収入に不安を持たなくても過ごせるのではという幻想を持つことができたのは、人類の歴史の中でもこの50年ほどだったのではないでしょうか。(日本は徳川300年があったかもしれない。その功罪は今や大きいかも)
 テクノロジーが発達して、インターネットという道具を手にいれて、だれでも情報を発信することができるようになった今、数少ないけれど自分の商品を欲しいと思ってくれる人に出会うことができるようになりました。また、世の中にはいろいろな考え方で、いろいろな商売をしているひとがいることを知ることができるようになりました。これによって、我々は、”自分の社会への役立ち方”の選択肢が大きく増えたと思います。わたしの若いころには、後継者がないといわれたいろいろな職業に、後継者が表れていますし、大儲けはできないかもしれないけれど、自分が楽しいと思える職業で細々とでも仕事を続けていくことができるようになってきたと思います。
 報酬はお礼だと考えると、”安定”はしないかもしれないけれど、収入を確保し続けるためには、結局のところ”人の役に立つモノを作る”という立ち位置からぶれないということになるのではないでしょうか?お礼をいってもらえるような”仕事”をすることが大事で、お礼をいってもらえるような仕事をすれば仕事の種類がなんであってもりっぱな仕事ということになるのではないでしょうか?
 なんだか当たり前の話に落ちてしまったのですが、次は、”報酬はお礼の印し”と考えた場合、具体的に日々の行動がどう変わるかについて、考えてみたいと思います。