刹那のチャレンジ
先日 NHKのある番組で ”チャレンジ”しなきゃはじまらない みたいな意見で終わる番組があった。
”チャレンジ”という行動を定義せずに、”チャレンジ”を語っているように思えたので、感じたことをまとめてみた。
”チャレンジする”という言葉が使われるとき、”なんらかの目標に向かった、プロジェクトを起こし実行する”という”長い期間”の”活動”を指すことが多い。(個人的なものもあるが、他者を巻き込んでいく活動も含まれる)
しかしながら、”刹那のチャレンジ”を日々の現実世界では要求されているように思う。
- ”恋心をいただいてしまった他者に、愛を告白する”という目的。
それを行動に移すとき、たとえば、具体的な言葉”今度の日曜日に映画いきませんか”と発語する(または、手紙を書いてポストに入れる)行動を起こす前の試行錯誤する”チャレンジ感”は、ものすごくインパクトがあり感情が揺れる。それを超えなければ目的は絶対に達成できないチャレンジであって、おそらく、”チャレンジ”という言葉にピッタリな感情と思考の動きではないかと思う。
- 大きなチャレンジプロジェクトは、”刹那のチャレンジ”を積み重ね
なので、この”刹那のチャンレジ”に注目して、いろいろな研究なり、議論なりが行われるべきではないか? と考えている。
- ”刹那のチャレンジ”が重要
また、”刹那のチャレンジ”が重要であると考えるならば、”チャレンジ精神が重要”という言葉を言い換えると”刹那のチャレンジが重要”おちうことであり、”刹那のチャレンジ”を行った人は結果がどうであれ評価されるべき ということにしたほうが良くないだろうか。
つまり、”刹那のチャレンジ”は、だれでもできることであって、身の回りで行動をしなければならない多くの場面で、”刹那のチャレンジ”を実行しなければならないときがあって、そのときに全集中して”刹那のチャレンジ”を成功させるように、考え行動することが大事ではないか と思う。
大きなプロジェクトを行うことがチャレンジということにしてしまうと、道半ばであきらめると”チャレンジしなかった”ということになるが、そうではないのではないか。
- 逆に、”チャレンジしない”とはどういうことかを考えてみるとよくわかる。
たとえば、留学したい という目標を持ったとしよう。
この目標を持つ ということ自体が刹那のチャレンジ”と考えて良いのではないかと思う。なんとなく”留学”と思っている状態から、”留学考えてみるか”に変わるときに、個人差はあるにしても”勇気”がいる。次に、方法を検討しなければならないだが、グーグルで検索してみるといろいろな情報があるが、相談できるとろが見つかったとして、”相談する”というチャレンジを行わなければならない。そこで、”相談するの面倒だから、留学するのやめる”という行動をとったとすると(具体的には電話をかけないという行動かな)、これが、”チャレンジしない”ということになる。”刹那のチャレンジ”をやめた時点で、目標をあきらめたことになる。これが”チャレンジしなかった”ということではないだろうか。
しかしながら、”留学したい”と思い、グーグル検索まではチャンレジしていることは、評価されるべきだと考える。
たとえば、”パイロットになりたい”と思ったとしよう。
なんらかのパイロット養成のコースに入学しなければならない。その試験に合格するために勉強を行う必要がある。勉強するためには、時間をやりくりしたり、誘惑と戦ったりしなければならない。具体的には、友達から遊びのお誘いがあっても断る というのが”刹那のチャレンジ”であったりする。そして、試験に合格して、コースに入ったとしよう。しかしながら、訓練を行っているうちに、視力の低下が著しくパイロットの資格の条件を満たすことができなかったとすると、パイロットになれない。ここで、かれは残念ながらチャレンジできなくなってしまう。しかし、これは”チャレンジしない”ということではない。
- 結論
このように”刹那のチャレンジ”に分解して考えないと、途中であきらめたひとは”チャレンジしなかったひと”ということになってしまう という問題から逃れられない。
また、実現できそうにないことを目標とするとに、それを実現するための具体的行動は、個々の小さな課題(電話をとりあえずかけてみるみたいな)にチャレンジすることである という精神的メソッドを具体的に明確に示すことができるのではと考える。