「夫婦茶碗」と「ペアルック」

夫婦茶碗」と「ペアルック」は、良く似ています。が、ちょっと違いますね。「夫婦茶碗」は、作者がカタチを意識して作られたもので、「ペアルック」はそれを”着る”ひとがカタチをイメージしているわけで、作る側はペアルックを意識しているわけではないことが多いでしょう。夫婦茶碗とは、そこが違う。ならば、ペアルックを意識して服を作ったらどうなるだろう それは夫婦茶碗と”同じ”ところに立つことになる。

使うことによって現われる「カタチ」と、物を作る過程で作者が思い描く「カタチ」との2種類があるという仮説が立てられないだろうか。

 物は使われる(鑑賞されるも含む)ことによって、その物に「カタチ」が現われる。以前にも記述したように、「カタチ」は人の心の中にある。しかし、作者は自分が使う人となって現れる「カタチ」をイメージしながら、さらに、自分とは違う実際に使う人と作品との関係を思い描きながら作品を作っていく。が、作者の手を離れたとき、想像することしかできない「カタチ」となってしまうわけです。

 少し寂しいようですが、不思議・不思議、それぞれの心の中の「カタチ」ははっきり見えないのに、同じ物を使って、複数のひとが、”これいいよね”と同じ感想を述べるわけなので、この物理的には乖離しているにも関わらず、でも同じように感じているらしいということを確認できることは、本当にすばらしいことだと思います。

 つまり、物を作って、それを手放して、どこかに置かれて、使ってもらうことで、その物を中心に人々の心が動き、生活にさざなみが立ち、関係する人たちに新たな展開をもたらすということなんでしょう。

 ペアルックは、その服を二人が”これいいよね”と思い、”これいっしょに着てもいいよね”と思えてはじめて成立するわけで、まさに、物が人の心に幸せな変革と発展をもたらす良い例なのかもしれません。