夫婦茶碗の「カタチ」

 夫婦茶碗(みようとじゃわん)のお話です。
 同じようなデザインで、ちょっと大きめと小さめの茶碗がセットになっているやつです。(最近はお店で売ってない?)”夫婦茶碗”という名称をつけると、茶碗2個セットに”夫婦”という「カタチ」が現れるようになるから不思議です。言葉が持つ力はすごくて、言葉の「カタチ」は、想像の中の茶碗セットが、普遍的夫婦や親子、嫁姑など、家族の関係にまで広がるイメージがあります。
 一方、現実に存在している”夫婦茶碗”は、それを使うひとにとって、名称とは切り離して考えても”夫婦茶碗”の「カタチ」を持っていると思います。お店で茶碗の2個セットを手にして購入しようとされている方や、実際に茶碗にごはんやお茶を注いで使っている瞬間に、いろいろな「カタチ」が見えていることを想像することができます。夫婦が同じデザインのものを使う。夫が少し大きいのを使い、妻が小さいのを使う、形が同じで色違いを使う という茶碗のセットは、”夫婦茶碗”という言葉とは関係なく、家庭内のひとつの意図されたパフォーマンスとして、多くの家庭で作られた「カタチ」でもあり、さらに、同じデザインでなくても、大きさがどうであれ、その家庭の中での夫が使う茶碗と妻が使う茶碗には、その家庭内で夫婦茶碗的「カタチ」が存在しているとも思うわけです。
 夫婦間や家族内での夫婦の関係を具体化する「象徴」として捕らえられる夫婦の茶碗たち。
 もし、映画などで、夫婦の片方が遠くにいったしまったとき、テーブルの上や、水切り籠や、食洗機の中に、そのひとの茶碗ひとつを象徴的にアップで撮るのか、夫婦の茶碗を2ついっしょにアップで撮るのか、テーブルの上にふせられた茶碗にフォーカスを当てておいて食事をするひとたちの手や茶碗や箸の動きを少しピントがずれた状態で取るのか、家族全部の茶碗のアップでとっておいて「おとうさんのは当分ここね」という言葉とともにその茶碗がすっと消えるのか、そこに現れる映画作品としての「カタチ」をも表現できるのかもしれません。
 今日の話を書いていて、”夫婦茶碗”というテーマで、言葉の「カタチ」、物の「カタチ」、そして、物を使うという暮らしの「カタチ」、さらに、物を使って表現をする「カタチ」と表現結果を見たときの物の「カタチ」という具合に、たかが”夫婦茶碗”という”物”に「カタチ」を与えるそれぞれ異なる場面で、異なる「カタチ」へのアプローチがあることがわかりました。がしかし、それらに共通に存在している夫婦という「カタチ」があることも明確に実感できました。
 そして、”夫婦茶碗”を作るひとは、おそらく、これらのいろいろなアプローチの「カタチ」をすべてイメージして、ひとつの”夫婦”というテーマを具体的な物に表現することになるのではないでしょうか。
 ソフトウエアはある意味では工業製品であるわけですから、”夫婦茶碗”のような暮らしの中で使うものではありません。しかし、工業デザインとしてでも、ソフトウエアが設計されるものであるわけですから(ソフトウエアは通常の物つくりで考えると、正確には製造工程はありません。試験工程まで設計工程です。機会があればまたこれについては考えを述べます)、作られる物へのいろいろなアプローチをイメージして、目的の機能を具体化することが必要なのではないでしょうか。
 ユースケースを列挙していくということが、いろいろなアプローチをイメージするための作業にあたるのでしょうね。昔は、ソフトウエアをユーザが使っている様子を描写する文章を書いて、どういうプログラムを作ればいいのかの作業をしていて、恥ずかしながらそれをdrawingと呼んでいました。実際には文才はまったくなかったので、ひどい文章だったのですが、ソフトウエアの「カタチ」のイメージをまとめるためには役立った手法だと思いました。